第9回「いじめ・自殺防止作文・ポスター・標語・ゆるキャラ・楽曲」コンテスト
 作文部門・優秀賞受賞作品
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いじめ撲滅は警察にも協力を』
        


                                                 谷口 ゆみ子

 会社でのいじめが原因でノイローゼになり、古郷の淡路島へ帰ってきたのが三十六歳でした。大阪での十六年間の一人暮らしに終止符を打ち、両親のいる実家へ帰ったのです。ノイローゼのまま会社に行っていたので疲れがたまり、実家でも半年間寝たきりでした。起きあがれないほど疲れていたのです。半年経っても働かない私を近所の人達がいろいろうわさし始め、騒ぎ始めました。家の前を通る人達は、
 「半年も働かんと?」
と罵声を浴びせ、農家の人達が一日中騒ぐようになりました。やっと大阪でのいじめから逃れて休んでいるのに、近所の人達からいじめられるようになり、よくなりかけていたノイローゼが再発しました。父は
 「お前がいると近所の人の迷惑になる。」
と言って、私を精神科の病院に入院させました。こうして私は精神障害を発症し、精神障害者になったのです。
 この頃の私には、疲れすぎていじめと闘う気力がありませんでした。両親は世間体を気にして、一緒にいじめと闘ってくれませんでした。それからの二年間は、何度も何度も入院させられました。両親を頼る年齢でもなかったのですが、入院すれば近所の人のいじめから逃れられるので、両親の言うことをきいて、何度も入院していました。
 そのうち、病院のスタッフに、精神障害者専用の施設に入ることを勧められました。そこには身よりのない人、家に帰る予定の人、一人暮らしを目指す人などが入居しており、体験で何度か泊まった時の印象が良く、私も入居してみることにしました。両親は施設に一生入れておくつもりだったようですが、施設は一生入れる所ではないので、初めは半年間の予定でした。入居してみると、同じような仲間がおり、皆いい人ばかりでしたし、常に専門のスタッフが何人かいて、悩み事や問題を解決してくれていたので、居心地はよく、私はだんだん元気になっていきました。
 そして、いつまでも親のスネをかじってはいられないので、障害者年金を申請しました。しかし、病気とは別の理由で却下されてしまいました。こうして私は再び働かなければいけなくなったのです。
 施設から働きに行くという理由で、半年が過ぎても私は施設においてもらえました。最初は自分で仕事を探して行っていましたが、精神障害を理由に、すぐにクビにされました。
 やっといい仕事が見つかり、精神障害があっても雇ってくれるところで順調に働き始めた頃、私には同じ会社に好きな人ができました。しかし、そのうち私は全治二ヶ月の怪我をして、仕事を休まなければいけなくなりました。会社の決まりで、パートは二週間以上休んだらクビということになっていたので、私は三年勤めた会社をクビになりました。その時、「もう二度と会えなくなるなんて嫌だ」と思い、好きな人に告白しました。手紙を持って行ったのですが、
 「ごめん、これはもらえない。」
と言われてしまいました。理由は私に精神障害があるからでした。
 仕事のクビ、失恋、精神障害、施設暮らし、女、四十三歳、独身……マイナスの要素ばかりが頭に浮かび、私は二週間分の精神薬を一気に飲んで眠りにつきました。「自殺」です。もう二度と目覚めたくなかったのです。生きていく気力がなくなってしまいました。
 しかし気がつくと病院のストレッチャーの上。点滴の管に父の顔。
 「お前、入院するんだぞ。」
父がそう言って帰って行きました。自殺は未遂に終わったのです。それからしばらくは、「何故死ねなかったのか」と悔やみました。
 病院には四ヶ月入院し、私はまた働かなければいけなくなりました。今度は専門のスタッフについてもらって、障害者登録し、障害者雇用で働くことになりました。自殺未遂して迷惑をかけたスタッフも、親身になって支えてくれました。こうして新しい仕事先で働くことで私は再び元気になっていきました。
 新しい仕事で三年が過ぎた頃、両親に介護が必要になり、私は施設を出て実家に帰ることになりました。施設には七年間もお世話になり、スタッフやいい仲間に恵まれたことで私は元気になりました。感謝の気持ちでいっぱいでしたが、実家に帰ると、また近所の人達にいじめられるのではという不安もありました。
 実家に帰ると、両親の世話のため、私は仕事をやめることになりました。親の世話をしている間はいじめもなく、私は一生懸命世話をして、両親を看とりました。家に一人暮らしになり、障害者年金がもらえないので、私は生活保護になりました。
 すると、またいじめが始まったのです。近所の人達は農家の人ばかりなので、田畑で一日中、私の悪口を言うようになりました。
 「他人の働いた金で生活して?」
 「税金泥棒?」
 「キチガイ?」
等々、ひどい言葉を浴びせました。それだけでなく、嫌がらせもするようになりました。バイクのタイヤの空気が抜かれたり、畑を荒らされたり、植えてある花が抜かれたり、夜中に玄関のガラスに傷をつけられたり、家のとゆがはずされたり、外燈が壊されたり。嫌がらせはずっと続きました。でも、私はもう三十六歳の頃の私ではありませんでした。闘う気持ちがありました。私は警察へ行き、いじめの一部始終を話し、助けを求めたのです。すると警察の人達は私の家へ来てくれて、はずされているとゆや外燈、空気の抜かれたタイヤなどを調べ始めたのです。それからはマメにパトロールしてくれるようになり、何かあると調べに来てくれました。私は警察の人達と仲良くなり、道の途中で会っても
「最近はどう?元気にしてる?」
と必ず声をかけてくれるようになりました。
 すると、警察が何度も来ているのを見た近所の人達が、
 「警察に調べられたら困る。」
と言って、いじめをやめたのです。私は何年もかかりましたが、強くなっていじめを撃退したのでした。
 それから数年、まじめに畑で家庭菜園をしていることもあってか、近所の人とはあいさつをしあう程度にまでなりました。笑顔で話しかけてくれる人もいるほどです。
 いじめを撃退するまでに十五年近くかかりましたが、その間にずいぶんいろんな人にお世話になり、私自身も強くなりました。大切なのは一人で悩まず、「プロに頼る」ということだと思います。施設でお世話になったことも、精神障害の「プロに頼る」ということだったと思うのです。精神障害とはどんなものなのか、治療に大切なのはどんなことなのか、ということから教えてもらい、再び働けるようにしてもらい、精神的に強くしてもらいました。実家へ帰ってもいじめに負けなかったのは、そのおかげでもあります。そして警察という「プロに頼り」、何度もお世話になって、一緒にいじめを撃退してもらいました。近所の人達には、「キチガイの近所に住むのは嫌だから、もう一度追い出してやろう」という気持ちがあったようです。
 今でも悪口を言う人はいますが、私は気にしません。堂々と外に出ています。三十六歳で実家に帰ってきた時には、こんな日が来るとは思えませんでした。現在五十六歳。精神障害とのつきあいも二十年になります。毎日、夕食後と寝る前に薬を飲み、元気に過ごしています。元気に過ごす方法は、施設で教わったものです。何かあれば警察とのラインも作ってあります。いじめはたとえ毎日でも「プロに頼る」ことが大切なのです。一人で悩んでいてはいけません。そして身のまわりの人と協力して、プロにお世話になり、いじめがなくなるまであきらめてはいけません。学校でのいじめなら、親と学校と警察が協力して、毎日でも対処していかなければいけません。いじめが犯罪だということを、いじめる子達に教えなければいけません。そしていじめる子達があきらめるまで対処を続けなければいけません。あきらめないことが大切なのです。特に子供は周りが守ってあげなければいけないのです。私は大人だったので、自分からプロに頼っていじめを撃退しましたが、子供は周りがガードしてあげなければいけません。学校は事実確認だけですませてはいけないのです。「いじめたか?」ときいて「いじめました」と答える子供はいません。休み時間などにいじめの現場をとらえて実際に警察を呼ばなければいけません。先生が注意するくらいでいじめをやめる子はいません。いじめは犯罪です。
  チクったらよけいにいじめられると弱気になっている子供も多いと思いますが、そんな子供が安心して周りの人にチクることができるようなラインを作ってあげることが必要なのです。親は学校に相談するだけではいけません。それが自殺防止につながるのです。一生のうちの大切な時間を預かるのですから、学校はいじめられている子の現場を責任をもってとらえなければいけません。子供の一生がかかっているのですから。一度は自殺未遂までした私が今、こうして元気に過ごしているのですから、いじめはあきらめなければ撃退できるのです。